ハンガイ山脈 Khangayn nuruu
モンゴルのほぼ中央に位置するこの山脈は首都ウランバートルから400kmほど西に行ったとこから始まります。標高は西へ行くほど高くなり、最高峰の標高4021m のオトゴンテンゲル山(Otgon Tenger uul)があります。私達は2009年の調査旅行で、 バヤンホンゴルからトゥイン川(Tuyn gol)に沿って北へ向かい、エルデネツォグト(Erdenetsogt)をとおり、標高が2500m 超のホル・サヤイン峠(Khol Syayn davaa)を越えました。分水嶺を越えた後はウルド・タミル川(Urd Tamir gol)に沿って ブルガン(Burgan)を経てツェツェルレグ(Tsetserleg)まで行きました。路程は下の地図のとおりです。
この山脈を境にして、北と南には川が流れ出しています。このことからもわかるように、この山脈は水に恵まれ、美しい草原が谷に広がります。この草を求めて、多くの遊牧民がヤクや牛を引き連れて移動して来ていました。ゴビ砂漠で1週間ほど過ごした 後でしたので、緑の豊かさが特に印象的でした。
フジルト川(Khjirut gol)との分岐点。deなだらかな山が続いていますが、奥に見える山は3,000m を越えています。 |
牛とヤクの群れを連れていた牧童の少年。 |
ハンガイ山脈の植物
この谷ではそれまで見たことの無いようなAllium altaicum の大群落に出会いました。まるで山の斜面がネギ畑になっているのは壮観でした。
トゥイン川(Tuyn gol)の西側の斜面にこのように群生しています。 |
|
この群落は見事です。かなり高いところまで生えていますが、斜面が急なので一番上まではとても登れませんでした。 |
分水嶺を越えてボルガン側に降り始めてウルド・タミル川の源流に出会いましたが、ここでもAllium altaicum を多数見かけました。ただ異なったのは生息環境の違いです。これまで見たA. altaicum は険しい崖のような場所に 生えていたので近付くのも命がけでした。しかし、ここの群落の多くは河床に群生していました。
ここではその他にもネギ属の植物を見ることが出来ました。
Allium prostratum |
|
Allium leucocephalum |
このページのトップに戻る
ツェツェルレグ Tsetserleg
バヤンホンゴルからツェツェルレグは直線距離で150km 程度しかありません。
ハンガイ山脈の峠越えの道は未舗装ですが広い谷沿いの道で走りやすく、夕方にはツェツェルレグに到着できました。
ツェツェルレグは人口16,500人(2000年国勢調査)で、アルハンガイ県の県庁所在地です。昔から文化と商業の中心地として栄えました。
ハンガイ山脈から流れ出るウルド・タミル川の豊富な水に潤されているのも繁栄の要因かもしれません。市内の博物館に掲げられていた絵には水と緑に恵まれている様子が描かれています。ちなみにツェツェルレグとは庭の意味です。
1586年にボルガン山(Bulga gol)の南の麓に寺が建立され、17世紀には1,000人を越える僧がいたと言うことです。ソビエト時代に宗教が否定されたことからこの寺院の多くが破壊されましたが、残された建物が現在はアルハンガイ博物館
として使われています。町の北側にあるボルガン山にはまっすぐ登っていく階段が作られ、大きな石造りの仏像とお堂が建っています。
のんびりとしたツェツェルレグ市内。ソ連時代からと思われる学校の古い建物もあり、なぜか豚が放し飼いになっていました。 |
|
1680年代に建立された修道院の三つの建物のうち、破壊を免れたグデン寺(Guden süm)で、 現在は博物館になっています。後ろに見えるのがボルガン山(Bulgan uul) |
|
ボルガン山の中腹にあるブヤンデルゲルーレフ修道院(Buyandelgeruulekh)へは長い階段を登っていきます。修道院の前には大仏が立っています。 |
|
ボルガン山から望んだツェツェルレグ市内 |
このページのトップに戻る
ハラホリン(カラコルム) Kharkhorin (Karakorum)
ツェツェルレグからウランバートルへ戻る途中、ハラホリンに立ち寄りました。ハラホリンはかつてはカラコルムと呼ばれており、私が初めてこの名前を聞いたのは高校の世界史の授業でした。チンギス・ハーンが大西征の兵站基地をこの地に造営し、
13世紀にモンゴル帝国第2代ハーンのオゴデイ・ハーンが壮麗な宮殿からなる首都をここに建設しました。ユーラシア大陸を舞台にした東西交流の歴史に興味を持っていましたが、当時はもちろんモンゴルのことはほとんど知りませんでした。
井上靖の「蒼き狼」や「楼蘭」を読んで、中央アジアの風景を想像していた程度です。ですから、カラコルムとは砂漠の中にある町、くらいにしか思っていませんでした。しかしここはオルホン川(Orkhon gol)の流域にあり、緑豊かな平原でした。
オゴディ・ハーンは駅伝制度であるジャムチを整備し、ハラホリンはその中心となって栄えました。第5代ハーンのフビライが13世紀後半に首都を大都(現在の北京)に移した後もモンゴル高原の中心地として繁栄しました。しかし第15代ハーンが
城壁都市タハイを造営して移転したため、その後衰退しました。現在のハラホリンは人口も少ない寒村で、遺跡もエルデニ・ゾー以外、目立ったものは残っていません。
村の南にある小高い丘から見たハラホリンのエルデネ・ゾー(Erdene Zuu) |
|
この丘の上には亀石があります。石碑を乗せる台座として作られたもので、かつてはカラコルムの各所にあったらしいです。 右の石像は丘の麓にあるちょっと怪しげなもので、ヒンドゥー教の影響だとも言われています。 |
エルデニ・ゾー Erdene Zuu
16世紀末にアルタン・ハーンが死去した後、各地の遊牧民の君主が割拠するようになり、統一国家としてのモンゴル帝国の存続が危ぶまれました。そこで仏教の力を借りて統一を維持しようとしたアバダイ・ハーンは、ラマ僧指導の下1585年からエルデニ・ゾーの 仏教寺院の建立を開始しました。17世紀以降、次々と寺院が建てられ、 1917年には62棟の寺院と500の建物があり、1万人を超す僧侶が居住していたそうです。しかしモンゴル革命後の1930年代以降はソ連の圧力により仏教は弾圧され、1938年に エルデニ・ゾーは仏教寺院としての機能を失い、博物館となりました。民主化以降、再び仏教寺院となり、訪れた時も多くの修行僧を見かけました。ここは2004年に「オルホン渓谷の文化的景観」の一部としてユネスコ世界遺産に指定されました。 モンゴルでは2カ所目となります。
エルデニ・ゾーは1辺400mの正方形の外壁に囲まれています。4カ所に門がありますが、出入りが出来るのは西門とこの東門だけです。 |
中国式のゴルバン・ゾー。ゴルバンは3を意味し、西寺、中央寺、東寺の三つの伽藍からなっています。右の写真が中央寺 |
中央寺の内部です。きらびやかな装飾が印象的でした。仏像の表情は独特です。 |
柔和な顔立ちの仏像の数々です、右の写真は仏陀13歳の像だそうです。 |
ラブラン・ゾー(ラブラン寺) 18世紀に建てられ、左の建物は講堂です。ここでは多くの修行僧が読経していました。 |
アルタン・ソボルガ(アルタン塔、「金の塔」の意味) インド仏教由来の仏舎利塔で、18世紀末に建てられました。 |
このページのトップに戻る